街路樹に感謝 野口レポートNo336

前を通る南武沿線道路が開通したのは昭和39年でした。その時から歩道には街路樹の「ゆりの木」が植えられています。落葉樹なのでこの季節になると歩道一面に枯葉が落ちてきます。この落ち葉を掃くのがひと仕事、やっと掃き終わっても風のひと吹きで元に戻ってしまいます。いつも文句を言いながら掃いていました。

朝7時の歩道の掃除は日課です。ある時、大事な事に気付きました。この木は2代目になりますが、大きく育ち「夏は葉が生い茂り事務所に入る西日を遮ってくれている。冬は葉を落とし暖かな光を事務所のなかに入れてくれている。」こんな有り難い事になぜ気付かなかったのか、自分の未熟さを恥ずかしく思いました。

「ありがとう」の語源は「有り難い」です。つまり、「ある」ということはなかなかないことなのに「ある」のです。それは幸せなことです。だから「ありがとう」なのです。

「ある」のが当然と思っていることは「有り難い」の正反対です。だから反対語は「当たり前」なのです。

有り難いは身近なところにあります。当たり前と思わず、感謝できるかどうか、気付くことで人格は形成されていきます。

街路樹の有り難さに気付いてから、落ち葉の掃除も苦にならなくなりました。ありがとうと感謝の気持ちで掃いています。

先日この木に張り紙がしてありました。「この樹木は管理に支障があるので伐採します。道路公園センター」とありました。

葉が青々と茂った元気な優良樹なのになぜ切るのか、役所の担当部署に問い合わせてみました。原因は横断歩道の邪魔になっており、公共の安全を優先するとのことでした。50年も放置しておき何をいまさらと思いました。

数日後、市から伐採を委託された業者が、ごみ回収車、クレーン車、高所作業車、作業員が4人と、ものものしい出で立ちで現れ、枝を払い幹の頭をクレーンでつまみ後は輪切りです。ゆりの木のあっけない最後でした。残骸(切り株)をさらけ出し、後は伐根されるのを待っているだけです。樹木といえ可哀想な気がします。

もし樹木が歩くことができたなら、どこか住み心地のよい場所を見つけ根を張ることもできるでしょう。が、それはかないません。植物は自分の住むところを選べないのです。この木も「座して死を待つ」しかありませんでした。

人間はいつも、不平不満、グチ、泣きごと、悪口、文句を言っています。植物は崖だろうが道路だろうがドブだろうが、種が落ちたところに根を張り、一切文句を言わず一生懸命生きています。人間も生きる強さを学ぶべきだと思います。

人が亡くなる時は、寂しさと同時にあっけなさを感じます。樹木も同じだと思いました。半世紀にわたり、南武沿線道路の街路樹として、私どもを見守ってきてくれたゆりの木に感謝し合掌です。